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麻浦区にて

銅像のとなりに座る 目が合わない、手に触れると冷たい。そこは博物館であったが、たとえば、その像のもうひとつの居場所(とわたしは呼べる人でありたい が、居場所というより 彼女はどこにいたっていいのです)のことを考えると、目の前にはどこまでも現在があるでしょう ひとりの人間では非力で、歯がゆく、届かないことばかりであるが。この となりに座る 体験を集団的に保持できたなら、巨大な悲しみを皆が受け入れられたなら いや、こんな生易しい言葉なんかで片付けてはいけないのです。常に語り損ねる。9月のわたしはその冷たさが、握られた拳に寄り添うのはとても難しく遠い道のりであるということが、あまりに大きい 事実であり、事実だ、と、どうにかして誰かに伝えたかった。 土地が分け隔たれている 遠いものはそりゃあ見えないだろうと、だからとなりに座って まずはじめに死んでいる、生きている、全ての霊に触れること

 

そのときちょうど、海を渡った彼女が、また苦しい苦しい環境に晒されていた(し、いまだって) 彼女はずっと顔を上げて、全てを見ている! その景色はわたしたちの中にも蓄積されていくのです。いったいどうしろと言うの まだわかりません わかることは とにかく怒らなければならないということ 輪郭のはっきりしない文章を載せてしまって申し訳ありません、これは個人的な区切り・これはただの感情の話 そこからは切り離して発話、発話を重ねてゆかねばならない。たとえそれによってディストピアにせまる結末になろうとも、です。いつかは淘汰される それだけは諦めてはならない